だれか花見に連れてって

仕事で文章作成作業(OUTPUT)が多かったためと、最近活字を読んで(INPUT)いないせいもあり、アウトプットとインプットのバランスが悪くてどうもここしばらく、あまりに不親切な日本語ばかりつづっていました。毎度目を通してくださってる皆様の辛抱強さには頭が下がります>オンオフの友人知人。メールやらコメント返信する気力すらなくて申し訳なかったです。

さて前置きはこのくらいで。
桜が綺麗な季節になってまいりました♪車窓から眺める白い小さな花の群を見る、それだけでうきうきわくわく心躍るのは、日本人に生まれたゆえの宿命でしょうか。職場でも花見がしたいねという話題に花が咲き、やっぱり私を含めた日本人にとって桜というのは春を象徴する特別な意味を持っているようです。
ところで何かで読んだ私の似非薀蓄によれば、今でこそ「花」といえば「桜」な日本人ですが、はるか昔奈良平安の頃だかは「花」といえば「梅」だったとか。ですから、一概に日本人の伝統だと一くくりに騒ぐのは早計かもしれません。桜なんて、意外と最近、たかだかここ1000年くらいのブームなのかなーなんて。(その辺に詳しい論文とかご存知の方いらっしゃいましたら教えてくださいませ♪(にっこり/自分で調べろ元文学部)
しかしです。まあ梅だろうが桜だろうが、どっちでもいいのですが、「薔薇」や「チューリップ」のように一輪だけで絵になる花ではなくて、小さい花がうわーっと樹にさいている、樹一本単位でその美しさを愛でる花が好みにあうというのは、やはり日本人の特性かもしれません。個性主義主張より、和を持って尊しとする、人と協力・共同作業を重んじる、そんな風潮と通じるところがあるような。
近頃は「世界に一つだけの〜」とか、こう、人と違うことを認めよう、人と同じでなくてもいいんだ、という主張が大手を振ってまかり通っていますが、勿論それ自体は至極まっとうな論理なんですが、だからといって他の人と違うこと、他人からぬきんでることに絶対の価値を置くのはどうかと思っています。桜の小さな花一つだって、一つ一つ見れば形がちがうし、桜のあの薄紅色の花びらはそれだけだって十分な美しさを持っています。けれど花一つの美しさとは別に、一つ一つ違う小さな花が集まって、調和の取れた美しい枝振りを見せる「樹」としての美しさ、そこにもやはり価値を見出してもいいのではないかと思っています。
桜がらみFLASH(薦)→http://maruproduction.com/flash/yoshino.html







あー、それにしても「春眠暁を覚えず」っていい言葉(仕事中に舟こぎかけて先輩と目が合ってにこりとわらって一言呟くのに最適な慣用句です日本語圏に生まれてよかったありがとう)♪




kさま>随分と前の話ですが、コメントありがとうございましたー!切ない心持、離れているからこそ募る恋心というのもまたオツなモンですよね♪短いですが、お楽しみいただけましたら幸いです。